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照屋寛徳 社民党・衆議院議員 沖縄2区
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4月28日は「屈辱の日」、沖縄問題の原点の日 -1952.4.28から2009.4.28-
「4月28日は何の日か知っているか」と聞いても、正確な答えは得られないだろう。4月28日、「ヨンテンニイハチ」は、沖縄県民にとって忘れられない日、永遠に記憶されるべき日である。
とは申せ、沖縄でも復帰後世代が過半数を占めるようになった。何年か前に県内の大学生のアンケートでも4月28日を知らない者が多数であったことを知り、愕然とした思いがある。
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を達成するが、奄美諸島・琉球列島はアメリカの軍事支配下に置かれた。奄美・琉球(沖縄)は、本土(日本)の施政権から分離されたのである。以後、1953年12月に奄美諸島は本土復帰が実現した。琉球列島(沖縄)の施政権返還、本土(祖国)復帰が実現するのは、1972年5月15日であり、その間沖縄はアメリカの直接的支配下に置かれた。
沖縄では1960年に祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日を「屈辱の日」として、復帰運動を展開した。復帰協結成前から奄美・沖縄・本土(沖縄出身者を中心に)で復帰運動はあった。アメリカは沖縄を「民主主義のショーウインドー」などと宣伝したが、実態は異なり、人権無視、民主主義否定の政治をおこなった。私自身、復帰運動世代として中・高校・大学時代を過ごした。当然、復帰運動に関心を持って参加した。アメリカの軍事支配下における「無憲法下」の人権蹂躙も日常生起するさまざな事件・事故を通して、常に怒りを覚えていた。復帰協主催の復帰行進、復帰要求県民大会、分断の象徴たる北緯27度線上における海上集会にも参加した。
復帰運動は、当初民族主義的で「母の懐に帰ろう」式の運動であった事は否定できない。私自身、当時復帰運動に「参加」したといっても、結局「動員」されたようなものだった。復帰運動の内実を問う思想性などなく、アメリカ軍の理不尽な支配に反発する感情だけが激しかった。1964年4月に琉球大学に入学して以降、学園闘争、B52墜落炎上事故、2・4ゼネストなどの運動の中で、復帰運動も民族主義的内実を脱し、反基地的「即時無条件全面返還」へと変わり、私の思想的「武装」もそれなりに変わった。全軍労闘争にも積極的に応援・支援に行った。
1972年5月15日、復帰は実現した。復帰後の沖縄は「無憲法」下の状況にあったが、復帰により日本国憲法は適用されることになったものの、日米安保条約も適用されることになった。
今や復帰前のアメリカ軍支配の27年より、復帰後の37年が長くなった。2009年4月28日、今の沖縄は「無憲法」から「反憲法」の状況を強いられている。相も変わらず国策の犠牲は続いている。日米安保体制の下で米軍基地からの負担と犠牲強要も続いている。特に、憲法法体系を超える安保法体系の下で、沖縄県民の尊厳は守られていない。1995年7月、戦後50年の節目で国政の場からこの国の民主主義を問いたい、と参議院議員初当選以来の日米地位協定の抜本的全面改正も未だ実現していない。
1952年4月、私は兼原小学校へ入学している。1952年4月28日から2009年4月28日までの57年間、沖縄で何が変わり、何が変わっていないのか、沖縄問題の原点の日である「ヨンテンニイハチ」に強く考えてみたい。
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【2009/04/28 14:00】
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