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沖縄の中学3年生が迎えた日米安保改定-あの時、何を思ったか-
 正月も3日目に入り、テレビのワイドショー(正月特番)を観ていると、今年が日米安保改定50周年の節目の年にあたる、と報じている。しかも多くの番組で「60年安保」を知らない世代の出演者がワイワイ騒ぎ、一つの物語を読むかの如く論じているのが気になる。(もちろん、60年安保経験者も出演しているのだが…)
 あれから50年、半世紀が過ぎた。あの日、あの時、私は具志川中学校3年生であった。実家は、9人兄弟の貧乏農家(ハルサー)だったので徒歩で通学していた。わが家にはテレビが無く、有るのは有線の親子ラジオのみであった。働きずくめの両親にとって新聞を購読するゆとりもなく、読む必要すらなかったのだろう。白黒テレビは、近所の園崎商店(雑貨店)のみにあった。部落(字米原区)中のほとんどの家庭が新聞を購読してなかったと思う。もちろん、調査したわけでもなく、部落の友人に尋ねたわけでもない。
 中学での担任は、国語教師の新屋武雄先生。なぜか生徒から「直立猿人」のあだ名で呼ばれていた。色黒で(浅黒よりやや黒いかなと思った)長身、やせた大男だった。日頃、身なりを気にする事もなく、履いている革靴は前が破けて口をパクパクさせていた。
 新屋先生の授業は楽しかった記憶がある。しかも、授業開始10分~15分間、世情(政治情勢)を話してくれた。持参した新聞も読んでくれた。先生の話で「60年安保」を知った。と言っても沖縄の田舎の中学生に「60年安保」の深い政治的意味など理解できるはずもない。新屋先生が熱弁をふるい、「60年安保」の不条理・不当性を説くので、「こりゃ、東京では大変な事態が起こっているんだ」を受け止めた。とにかく、新屋先生の話しぶりから「アンポ フンサイ、アンポ フンサイ」のデモ隊の叫びが、中学の教室までリアルに伝わって来た。私が「60年安保」を意識した最初のきっかけである。
 当時は、沖縄の復帰運動が盛んになり始めた頃で、「安保」より「祖国復帰」に興味と関心が強かった。当時の乏しい情報からもアメリカの圧政に対する怒りは日常的に感じ取っていた。教師達を含めた「復帰協」を中心とする民族主義的復帰運動が沖縄問題を全て解決する唯一の方法だと信じ込んでいた。
 50年前の安保改定時において、沖縄には日米安全保障条約が適用されない事も知らなかった。沖縄に日米安保が適用されるようになったのは、1972年5月15日、日本復帰の日からである。よって、沖縄にとっては今年が日米安保適用38年目である。あの日、具志川中学校3年在学中のテルヤ少年は、もうすぐ65歳を迎える。今は50年前「アンポ フンサイ」のデモ隊が国会議事堂を包囲した、衆議院安全保障委員会で、日本国の安全保障を議論している。歴史の皮肉か、それとも歴史の必然か…
3日 8時40分
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