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コザ騒動、あの日から40年・・・
 1970年12月20日未明、コザ市(現沖縄市)の「基地の街」は、米軍統治に対する住民の怒りが爆発、多数の米軍車両(イエローナンバー)が焼き払われた。40年前のその日、私は司法修習生として東京におり、現場に立ち会えなかった。事件はコザ暴動ともコザ騒動とも呼ばれている。
 ”暴動”という言葉には無秩序な暴起による無法な決起というイメージがともなう。そのような意味でのコザ暴動ではなかった。一方、”騒動”という言葉には、単なる騒ぎ、目的意識のないお祭り騒ぎ的な雰囲気があるが、それとも違う。40年が経った今現在、私の胸の中で”暴動”と”騒動”がせめぎ合っている。
 私は、コザ騒動(暴動)のニュースを東京で聞いた。「ついにやったか」というのがニュースの第一報を聞いた直後の思いであった。米軍支配下で人権と尊厳を否定され続けてきたウチナーンチュの怒りが爆発し、ついに蜂起したのだ、と素直に思った。同時に、こんな時に司法修習生として東京に居ていいのか、と思い悩んだ。
 翌日、すぐに那覇空港に手配した妻の親戚筋のSさんの個人タクシー(ベースタクシー)に乗り、コザ市に向かった。途中の車中で騒動を現認したSさんは、抗議に決起した市民を無賃で乗せたこと、ガソリンスタンドの従業員が火炎ビンにガソリンをタダで給油していたこと、バーのホステスが点火用の新聞紙やティッシュを運んでいたことなどを興奮気味に話していた。ライカムからゴヤ十字路までの道端には、焼き払われた米軍乗用車が何台も残骸をさらけ、放置されていた。
 私は、コザ騒動(暴動)は、1969年7月の米軍知花弾薬庫における致死性ガス漏れ事故、1970年12月11日の米兵による主婦ひき殺し事件の無罪判決など続発する米軍・米兵による事件・事故、毒ガス移送、基地労働者の大量解雇等に対する自然発生的な住民の米軍に対する直接的抵抗闘争だったと思う。従って、特定の主謀者、指導者、指揮者、扇動者はいない。強いていえば、参加し、手助けした一人びとりが無自覚の主謀者であった。コザ騒動(暴動)は、そのような意味で住民から支持され、取締りの米軍MP(憲兵)すら共感を寄せていた。
 私は、1972年3月に司法修習を終え、弁護士を開業し、自ら進んで「コザ事件」の弁護団に入れてもらった。
 事件発生直後、当時の琉球警察と琉球高検は騒乱罪による立件を視野に捜査したようであるが、起訴段階で騒乱罪の適用はなかった。もちろん、捜査段階における弁護団の闘いの大きな成果である。いや、世論がそれを許さなかったからであろう。
 第一回公判は、復帰後に始まった。私は、一番若い弁護団員として検察庁での記録謄写(当時は湿式の青焼きコピーだった)に悪戦苦闘を強いられていた。
 あれから40年、沖縄の現状は変わらない。今や米軍だけでなく、日本政府の基地政策、沖縄差別への怒りも高まっている。コザ騒動(暴動)のような事件がいつ発生してもおかしくない日常を強いられている。受忍限度はとっくに超えている。爆発寸前だ。

13時20分

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